出されたお茶はお代わりしなさい

出されたお茶は飲まないのがマナーだというのまとめを昨日読んで、さすがに唸った。

確かにそういうマナーがあるそうで、勧められるまで飲んでははいけないとか。一方、出されたものはちゃんと頂くのがマナーだとか、そういう捉え方もある。

しかし、本当にこういうマナー議論はくだらない。だいたい日本人の間ですらこんなに見解がちがうのだから、外国人には意味不明だろう。どうにかして、何かの型にはめたいという、マナーファシズムがあるようだ。

ちなみに私は、出してきたお茶はだいたい飲むし、夏場でのどが渇いていると足りないからおかわりをもらうことが多い。3杯くらい飲むこともある。

さて、結局、このマナーはどちらが正しいのだろうか?

おかわりをすることは、マナー違反なのだろうか?

というか、重要なのは、どちらが正しいかを決めようという姿勢自体がクソだということだ。みんなそれに気づいていない。

出されたお茶を飲むほうが現代のフィーリングにはマッチするので、多数派の意見は、

「出されたお茶は飲むのがよいですよね。お茶を作った生産者の気持ちも汲むのがマナー」

という感じに落ち着いている。この落ち着いているというのが、こんどは、お茶は飲め!みたいな暗黙の空気をうむ。どっちもどっちだ。クソでしかない。お茶な飲め派だって、どっちかのマナーを押し付けたいマナーファシストにすぎない。自分のルールを相手にも守ってもらいたいという点で、どっちもどっちだ。作法を指導しないと気がすまないのだろう。

要するに、こんなことは、まったくもってクソみたいな話であって、こういうことをマナーとして取り上げる事自体が決定的に間違っている。

仮に、お茶を植木にあげようが、お茶をつかってお祈りするひとがいても、気にするな。なんだろうが、気にするな。

よのなか色んなひとがいる。人それぞれに反応や行動が違うことを受け入れれば、気にならない。逆にマナーに固執する人は、他人を許せないんだろうね。

多様性を受け入れられないから、こんな議論が起っている。

「なんだろうが、気にするな」

これが、このお茶問題にたいする、わたしの正論である。

日本のマナーは、社会の実用上のものというより、単に全員がおなじことをして、それから外れるひとを排除するという儀式にすぎない。

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