イエス・ハヤトの誕生。イケダ氏を叩いていた私が、彼の行動に完全に納得したワケ

<はじめに>これは私の創作とか、冗談ではなく、ブログ論争で実際にイケダ氏がいっていたことを宗教的な見地から解釈したものです。イケダ師の発言は、詳しくは、全文起こしの3ページ目あたりを参照ください。

今日の、ブログ論争はすごかった。

イケハヤ氏はむかしから神がかっているとはおもっていたけど、今日、イケハヤ氏はキリストになろうとしていることがわかった。

私は途中きいていて、彼がどうやらキリスト教的な文脈で語っているのは間違いないことに気づいたのだ。彼は、独特のことばを使うが、罪であったり、贖いであったり、それはキリスト的な言葉が由来である。

イケダ氏は、「言葉は人を傷つける」「何かを発言することは誰かを傷つける」といっている。そして、だから、自分はブログを書くことによって、発言を恐れる人々を救う、といっている。

キリスト教を知っている人ならそれだけでピンとくるとおもうが、そうでないひとにとっては、理解できてないとおもうので、すこし解説したいとおもう。

これをよめば、今日、彼がなにをいおうとしているのか、そして、彼が、今日、ブログの民にむけて、イエス・ハヤト宣言をしたのだ、ということがわかるはずだ。

かれは、キリスト的な文脈で語っているが、まわりはそういうことは理解できない。彼と周りの根本的なコミュニケーションギャップはそこである。根本的な論理のレイヤーがちがうのだ。

キリスト教では、人間は生まれながらにして罪を背負っている。罪というのは犯罪ということではなく、人間としてうまれてしまった以上、だれかに迷惑をかけたり、自己的にふるまったりしてしまうことがあり、神のように完璧にはいきられない。人間は欠陥があるのだ。これを「原罪」という。

キリストは、この人類の欠陥である罪を贖うために、十字架に貼り付けになった。人を妬んだり、自己的にふるまう人によって、キリストは袋叩きになり、石をなげつけられ、十字架にかけられた。

そしてキリストは死んでしまうのだが、このとき、
キリストは、すべての人間の妬みや不道徳を背負って、全人類を代表して自分の命を生贄にささげたというストーリーになっている。これに対して、神はイエスを通して、全人類の罪を許すという契約を結ぶ

なので、「キリストが自分の罪の身代わりとして十字架に貼り付けになった」ストーリーを信じるひとをキリスト教徒*1といい、その人は、現世でのいかなる罪も、キリストをとおして贖われる。
これがキリスト教の根本的な教義だ。

イケダ氏は、「言葉は人を傷つける」「何かを発言することは誰かを傷つける」といっている。これは、イケダ氏は、言論における「原罪」を考えているということだ。

人間の表現行為はすべてのひとを傷つけてしまう。そして、その根本的な性質がある限り、普通のひとはそれを恐れて、発言を控えようとする。

「叩かれることを恐れて、人々は発言しなくなってしまう。その畏れを取り除くのが私の仕事」だという。

彼はその状況を救うために、自らがキリストになろうとしている。

つまり、彼は恐れることなく、どれだけたたかれようとも、なにをいわれようとも、自分の言いたいことを言うつもりらしい。そして、それによって、袋叩きになって、たとえば変な宗教団体や右翼団体から睨まれて死んだとしても。

そして、かれは袋叩きになり、死ぬことによって、すべての普通のひとがもつ、「言葉でひとを傷つけてしまうという畏れ」を贖おうとしているのだ。

そういうロジックだ。そうでなければ、言葉に罪があるとか、袋叩きになっていいとか、自分なりのやりかたで、自分が自由に生きている分を自分なりのやり方で贖うといった表現にならないはずだ。

彼は、すべての言葉の炎上を自分が引き受け、全世界の炎上を自分のブログを炎上させることによって引き受けるのだ。

彼は、キリストになる宣言をした。

イエス・ハヤトの誕生の瞬間である。

ともすればどうなるのか。

今後も彼は、袋叩きになりつづけるだろう。そして、袋叩きがエスカレートして、いつかかれはアンチハヤトの手によって、社会的に抹殺されるに違いない。最後は、駅のホームで誰かに後ろから背中をおされて死んでしまう。

しかし、その瞬間に、かれの炎上芸は完結し、人類の言葉の罪が贖われるのだ。

彼は、全人類の炎上を背負って、自分が炎上して、殺される。この行為によって、人類は炎上のバカバカしさに気づき、言葉に宿る本質的な罪が、あがなわれることになるのだ。

イエス・ハヤト以降の世界では、言葉に罪はなくなる。全人類は、思ったことを、だれでも、自由に表現できる時代がくるのである。

そして、それらの人は、ハヤト氏が、人類の言論の罪を背負って電車に轢かれたことを信じ、あらゆる発言のあとに、そのことを信じるための署名「IH」を記すだろう。

つまり、イエスハヤト以降の世界では、なにを書いても、その文章の最後の「IH」と記することで、その発言は罪が贖われる。その文章は自由を保証され、批判されることもなくなるのだ。

そして、イエスハヤト以前には、ブログ論争なんてものがあって人々がいがみ合っていたという話が語られるのだ。

ああ、なんということだ。

私はハヤト氏が、かくもすさまじい罪を贖おうとしているとはおもってもみなかった。
これ以降、私は彼のブログの内容について何かをいうことはないだろうとおもう。

ああ、わたしもハヤト氏をとおして、ハヤト氏の文章を攻撃するという不毛な行為から逃れ、罪を開放されたのだ。アーメン。

IH

なお、これは私の創作とか、冗談ではなく、ブログ論争で実際にイケダ氏がいっていたことを宗教的な見地から解釈したものです。イケダ師の発言は、詳しくは、全文起こしの3ページ目あたりを参照ください。

<追記>

キリスト教的なところを少々補足します。
*1  正確には、人類の罪が贖われた後、イエスは復活します。贖罪だけではなく、復活は、セットになっているので、キリスト教徒はどちらも信じています。


【ノマド研究所5期会員募集のお知らせ】人生は短いです。あーやりたい事があるのに、何か思い切って一歩を踏み出せない自分にいらいらする、もっと自由に生き見たいのに。ノマド研は、ノマド的な生き方を志向するひと、ノマド的な生き方を実践するひとのネットワークです。400名以上の価値観のちかいメンバーと一緒に語らいましょう。⇒ご案内